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【アウシュヴィッツで感じたこと】 平和を願い続けたアンネ・フランクの軌跡 - ポーランド旅行記

アウシュヴィッツ強制収容所(Auschwitz)はポーランド南部、 チェコやスロバキアとの国境沿いにあります。 ポーランドの京都とも称される クラクフからは バスなどで1時間ほど、西に70kmほどのところに位置します。

アウシュヴィッツ強制収容所とは

第二次世界大戦中、ドイツ・ナチス政権の反ユダヤ主義により ユダヤ人絶滅収容所としての役割を果たす恐怖の舞台となったのがこのアウシュヴィッツです。 そのことから負の世界遺産として、今も戦争の悲惨さと今後の課題を私たちに伝え続けています。

アウシュヴィッツ強制収容所は、ユダヤ人の他、政治犯、ジプシー、精神障害者、身体障害者など 生存・労働に値しないとみなした人々を強制的に収容した施設群の総称です。

基幹収容所としてのアウシュヴィッツ第一強制収容所の他、 アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)、 アウシュヴィッツ第三強制収容所(モノヴィッツ)があります。

訪れたいと思っていた理由

私が今回ポーランド旅行を考えた一番の理由は、アウシュヴィッツを訪れたいとずっと思っていたからです。 子供の頃アンネ・フランクの「アンネの日記」を何度も繰り返して読んだ私は、 戦争の非情さを感じるとともに彼女のその後の軌跡をたどりたいと思っていました。

アンネはユダヤ系ドイツ人両親から生まれ、オランダで幸せに暮らしていましたが、 ナチス政権がヨーロッパをほぼ制圧していく戦況の中、隠れ家生活を余儀なくせざるを得なくなります。 彼女は家族と共にアムステルダムの隠れ家で約2年間過ごすのです。

アムステルダムの隠れ家には、別日程で主人と訪れました。
アンネ・フランクの隠れ家については こちらに書いています

その後彼女たちの隠れ家はナチスの知るところとなり、 オランダ北東のヴェステルボルク通過収容所を経由し、 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に移送されて約2か月過ごします。 その後ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所で15才の短い生涯を閉じたのです。

彼女の日記の初めは、日常の出来事や日々思うことが綴られていました。 しかし、ドイツ侵攻や隠れ家生活の中で次第にナチス政策への恐怖や平和への願いなどが切実に書かれるようになります。 小中学生の頃の私は悲劇的な一生を終えた彼女の心の叫びに心打たれ、何度も日記を読み返しました。 「アウシュヴィッツ」は、戦争と平和を考える上での特別なキーワードとして 子供の頃から私の頭にあったのです。

アンネ・フランクについて、彼女の生きざまや考え方について、まず概要を知ることができます。幼い小学生にも理解しやすく心に残る本となるでしょう。

13歳から15歳の2年間にわたり、文才に溢れ感受性豊かなアンネ・フランクが書き綴った日記です。日常の出来事や、戦時中の異常な隠れ家での生活の中で彼女が感じた赤裸々な記述が心を打ちます。彼女と同世代の小中学生にもぜひ読んでほしい本です。

アンネ・フランクの家族、彼女を取り巻く人間関係、当時の社会状況などを理解し、彼女のことを更に深く知ることができます。改めてアンネの日記を読み返すとより彼女の平和への思いや悲劇の死を遂げた無念さ、今後私たちが果たすべき役割を考えます。

アウシュヴィッツ第一強制収容所

アウシュヴィッツ第一強制収容所は、基幹収容所として管理機能を持った収容所でした。 1940年に建設が開始され、ナチスの台頭の中次第にユダヤ人の絶滅収容所としての機能を高めていきました。

第二次世界大戦後、ドイツ敗戦と共にソ連軍によって収容者は解放されました。 現在は博物館として公開され、私たちに過去の悲劇や平和の大切さを伝えています。

入口となる建物前です。 世界中から多くの人々がこの悲劇の舞台を訪れていました。

入口から敷地内に入りました。 通りを歩いていくと、収容所へのゲートが見えてきました。

収容所として使われた建物群が並ぶ敷地へのゲートです。

ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と書かれています。 何度も本やテレビで見たことがある有名な門です。

果たしてこの文字を真実味があるものとして読み取った収容者がいたのでしょうか。 おそらくは、壮絶で恐怖しかない日々の中、意味ない文字として忘れ去られたことでしょう。

奥までレンガ造りの建物が並んでいます。 約30の施設から成っていたそうです。

実はこの風景は、想像していたイメージとかなり異なり驚きました。 赤茶色のレンガで頑丈な建物が綺麗に立ち並び、美しいポプラ並木まであります。 この風景を見る限りでは、誰も悪名高きアウシュヴィッツ強制収容所の写真と思わないのでないでしょうか。

しかし、やはり建物内の展示部分を見学すると、ここが悲劇の舞台であったと思い知らされました。 収容者の没収物や着用していた衣類の数々、目をそむけたくなるような悲劇の展示物が部屋ごとに並んでいました。

赤レンガの建物の中は想像すら難しいような劣悪な環境で、 数万人もの収容者たちは食事もほとんど与えられずに苛酷な労働を課されたのです。

建物の周囲には鉄条網が張り巡らされていました。 高圧電流が流された鉄線をまじかに見て、やはり尋常でない収容者の暮らしを感じました。

収容者の命を最も大量に奪ったのはガス室です。 博物館内にはガス室で実際に使用された毒薬「チクロンB」の大量の空き缶も展示されていました。 どれだけ多くの人々が苦しみもがきながら亡くなったのでしょう。

ガス室での描写は、スピルバーグ監督のシンドラーのリストでも見ましたが、 ガス室とそこから上っていく異様な煙は印象に残っています。 労働者として判断されなかった人々は、ここで大量虐殺されたのです。 敗戦時にガス室はその存在隠蔽のため破壊されましたが、現在復元されたものを見学できます。

また多くの人が命を落としたのは死の壁です。 いわれなき罪で銃殺された何千もの人々を悼み、たくさんの献花が置かれていました。

アウシュヴィッツ第二強制収容所

アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)は、第一強制収容所から西方向2kmほどのところにあります。 鉄道線路が建物内に伸びる下の写真は、アウシュヴィッツを代表する風景でないでしょうか。

ヨーロッパ各地から貨車に詰め込まれてビルケナウの第二強制収容所に連れてこられたユダヤ人の多くは、 逃げ場のない悲惨な絶滅収容所内が人生の終路となったのです。

ビルケナウの第二強制収容所は、広大な敷地の中に300棟以上もの建物が並んでいました。 敗戦による撤退時にドイツ軍がほとんど破壊したため、 私たちが感じることができるのは、いかに多くの人々がここに連れてこられて絶滅対象とされたかという事実です。

建物はまさしく強制収容所としてイメージしていた バラック小屋、掘っ立て小屋です。 寒々とした建物の中を見学することができます。 木の三段ベッドや、丸い穴が次々と並ぶトイレ。 とても人間の生活の場とは考えられません。

旅行に行くと、カメラ片手に写真を撮りまくる私ですが、 ここアウシュヴィッツにおいては 建物内で写真を撮る気にはどうしてもなりませんでした。 悲惨な状況が伝わってきて心が痛み、第一強制収容所、第二強制収容所とも見るのが精いっぱいでした。

木造のバラックが驚くほどはるか彼方まで続いていました。 アンネ・フランクも、このバラックのいずれかで約2か月を過ごしたのです。

想像以上の広大な土地に集められた人々のうち、ナチスによって殺されたのは400万とも600万とも言われています。 ソ連軍により解放されるまでにほとんどの収容者は命を落としたのです。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を後にする頃には すっかり夕暮れ時になっていました。 負の空気に満ち溢れていたアウシュヴィッツには似つかわしくないほど美しく穏やかな光景でした。

しかし、当時の収容者たちはたとえこのような風景を見たとしても 決して心に響く時間は一時もなかったでしょう。 誰もが死に満ち溢れた空間の中で、生きているのが奇跡的な日々を送っていたのです。 ここで実際に見て感じた気持ちは、今後も強く持ち続けなければいけないと改めて思いました。

アウシュヴィッツ強制収容所周辺マップ

地図左上「航空写真」をクリックし、家アイコンのあたりを拡大すると立体的に確認できます。
縮小するとワルシャワなどとの位置関係がわかります。